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Life And Dead Story

アルフォンス・デーケン氏 (上智大学文学部教授)成田日赤新棟完成記念講演録

私は生まれた時はドイツ人でした。その後、フランス・イタリア・アメリカなど 12カ国で生活しましたので国際人になりました。今、日本に骨を埋めようと思 っていますので、心は日本人です。上智大学で「死の哲学」を教えています。
デーケンという名前のとおり、「何もでーけん」(笑)。今日は皆さんと一緒に「心のいやしとユーモア」という大切なテーマについて考えていきたいと思います。

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― 心の癒しとユーモア ―

第1に「出会いと別れの意義を考える」 私たちの美しい体験は、出会い、愛され、愛すること。出会いが深ければ深いほど、別れも辛いですから、死別体験のあとのいやしについて、そして、自分自身の死に直面したときの心のいやしについて考えましょう。

第2「心のいやしを求めて」 患者とのコミュニケーション、とくに末期患者とのコミュニケーションのなかで、いやしの大切な役割は、末期患者と共に歩む(Sterbebegleitung)ということです。存在、人格のあたたかさによる患者の心のいやしについて話したいと思います。それから、希望。いやしのなかの大きなテーマは「希望」だと思います。 「第3の人生への6つの課題」というのは、患者さんが年をとって、病気になって不治の段階になっても、まだ6つの大切な課題があるということです。それも、心のいやしと解釈したいです。

第3「愛と思いやりに満ちたユーモアを」 病院で働く人たちは、ストレスが非常に多いと思います。ユーモアによる健康管理、ユーモアによるいやしというのは、ストレス緩和と同時に、患者とのコミュニケーションをスムーズにする役割もあり、それについて話したいと思います。
「死」についての教育は「生命・ 生きる」ことについての教育
人間はどうしても死に対する過剰な恐怖や不安をいだいています。 私たちは知らないことに対して不安を感じます。ある程度の教育・学習に よって、過剰な恐怖・不安を解消することができます。 それが私たちの心のいやしにもなると思います。
まず第1は「生命の有限性への認識〜死への準備教育」
生と死について教育を受けることは、とても大切なことです。長い人生において一番辛い、難しい試練は何でしょうか? これは、身近な人の死を体験することと、自分自身の死に直面することです。そのための教育が一切ないということは、寂しいことだと思います。
「death education」は決して暗いことではなく、いかに人間らしく死を迎えるか、これは同時に、いかに最後まで人間らしく生きられるかという教育です。「death education」は同時に「life education」なのです。 おもしろいことに私の母国語ドイツ語では、動物の死と人間の死は違う動詞を使います。動物は「verenden(フェアエンデン)」、人間のためには「sterben(シュテルベン)」を使います。その違いはどうでしょうか。
肉体的な衰弱のプロセスは人間も動物も一緒で、年をとって病気になって、そして死に至りますが、大きな違いは、人間は肉体の衰弱のプロセスのなかで、まだ人間として精神的・人格的に成長できるということです。
例えば、先程加藤先生が黒澤監督の「生きる」という映画の話をしました。この映画はとても素晴らしいですね。自分ががんになって、あと半年の命しかないことを知ります。それまでの60年近くを本当の意味で生きてこなかったことを悟り、その反省から、初めて生きがい・意義ある人生について考え、子供たちのための公園をつくりました。死に直面することによって初めてよりよく「生きる」ことができたのです。
 実は昨日、私は「生きる」に出演した女優さんに会いました。彼女は今「大和 生と死を考える会」の副代表です。彼女は医者と結婚し、子供が亡くなり、そして死別体験者のための大和の会の副代表になりました。
愛する相手を失うかそうでないかは運命的なものですが、その後どう生きるかは自分自身が選ぶことができる。これは運命的なものじゃないんですね。
教育の4つのレベル
日本では今、3人に1人はがんで死にます。私たちは遅かれ早かれ死に直面する時が来ます。そこで、現実的に考えて、最後の日々をどういうふうに過ごしたいか、ただ死を待つのではなく、有意義に過ごすために教育が必要だと思います。 教育の4つのレベルを考えます。
  1. 知識のレベル
  2.  キューブラー・ロスさんの「死ぬ瞬間」を引用しました。死のプロセスや、死に直面したときの心理的状態についての研究も多くあります。
  3. 価値観のレベル
  4. 例えば脳死臓器移植。私も厚生省・臓器移植の研究員のひとりです。日本でも多くの人が臓器移植を待っていますが、一般市民はまだ問題意識が足りません。私は慶応病院のアイバンクに登録しました。私が死ぬとき、私のこの美しい目を火葬にしてはもったいないと思って、誰かに差し上げたい。まあ、死ぬまで待って下さいね。(笑) これは、価値観です。私は、私の死によって誰か今見えない人が見えるようになれば、素晴らしいじゃないかと思うのです。 あるいは移植。人工透析で週3日3時間。私の姪もそうでした。大学病院で腎移植を受けて普通の生活を過ごせるようになりました。それを知った時、私は早速、腎移植の登録をしました。腎移植を待っている人は大勢います。そういう人を助ける。これは、価値観。
  5. 感情のレベル
  6.  死に対する過剰な不安・恐怖を乗り越えるための感情のレベル。
  7. 技術のレベル
  8.  具体的に患者のいろいろなニーズをよく理解して、それに対して何ができるかということです。
死の4つの側面
日本語では「死」という言葉は、ほとんど肉体的な死を意味します。 私は、最近死の4つの側面を考えています。
1. 心理的な死(psychological death)
2. 社会的な死(social death)
3. 文化的な死(cultural death)
4. 肉体的な死(biological death)
私は、アメリカの老人ホームや病院で勉強したことがあります。人間というのは、肉体的な死を体験する以前に、心理的な死を体験すると思います。いっさい生きる意欲がなかったら、心理的には死ですね。(心理的な死)
人間は本質的に社会的な生物です。ドイツの中学・高等学校の教科書で死への準備教育の本が20冊も出ています。お父さん・お母さんが何十年も苦労して子供を育て、そしていよいよ自分が入院したときに子供たちが来てくれなければ、これは社会的な死ですね。 そういうことのないように、若い人に親が入院するときはそばにいることが最後の親孝行として教育されています。(社会的な死) 人間はまた本質的に文化的な生物でもあります。だから、文化的なうるおいがなければ、結果的には文化的な死となってしまいます。(文化的な死)
 学会でよく、何故人間は長く生きるようになったか、という発表があります。毎日泳ぐ人は、6年間長く生きる。ですから私も毎朝上智大学のプールで泳いでます。毎日歌う人はプラス4年だそうです。 ですから毎朝シャワーを浴びながら、3つの歌を歌います。ユーモアをもっている人は、だいたいプラス5年だそうです。ですから、今日ユーモアについてですから、最後まで頑張ればプラス5年です。(笑) 全部計算すれば、137歳まで生きられることになるんです。長く生きることはいいですね。 できるだけ最後まで精一杯人間らしく、楽しく、創造的に生きてほしいんです。そのためには、心のいやしが必要ですね。  クォリテイ・オブ・ライフ。量だけでなく、質が大切です。私は、英語の quality of lifeは、日本語で生命だけでなく、生活だけでなく、「生命や生活の質」と翻訳します。音楽療法・読書療法・芸術療法・作業療法・アロマセラピー・ペット療法などは、心のいやし、あるいは生命や生活の質を改善するために大切な新しいアプローチだと思います。  私が理想とするところは、肉体的生命の延命と同時に、心理的・社会的・文化的生命の延命をあわせて総体的生命の延命です。これは、21世紀の医療と看護に期待する大きな課題だと思います。
悲嘆教育の重要な役割
心のいやしのもう一つの非常に重大なポイントは、死別体験者・愛する人 を失った人への心のいやし・心のケアです。
 フランス語には美しいことわざがたくさんありますが、私が留学した時、一番感激したのは「別れは小さな死」。 今まで、愛する人(配偶者や、お母さんや、子供)と一緒に生活することによって、精一杯生きることができたんですが、愛する相手を失うことは自己の小さな一部が失われることであり、私たちにとっても小さな死ですね。だからこそ大切な人を失ったときの心のいやしが必要です。  私は、悲嘆のプロセス12段階のモデルをつくりました。これは、アメリカ・オーストラリア・ドイツ・日本で何千人もの体験者を比較しながら作ったものです。
  1. 精神的打撃と麻痺状態
  2. 否認(相手が亡くなったことを認めたくない)
  3. パニック
  4. 怒りと不当感(なぜ、私だけがこんな不幸に見舞われたのか? 等)
  5. 敵意とうらみ(なぜ、夫は私を見捨てて自殺したのか? 等)
  6. 罪意識
  7. 空想形成・幻想
  8. 孤独感と抑うつ
  9. 精神的混乱とアパシー(無関心)
  10. あきらめ―受容
  11. 新しい希望―ユーモアと笑いの再発見
  12. 立ち直りの段階―新しいアイデンティティの誕生
 昨日会った「生きる」に出た女優さんは、子供を失ってから私の研究室に来て「大和 生と死を考える会」の死別体験者の分かち合いのグループを作りました。 新しい希望として、自分自身が苦しんだ経験から、今度は人のためにボランティアとして協力することに生き甲斐を見出す場合も多いのです。そして、立ち直り、新しい自分が生まれる。  立ち直る段階での心のいやしでとくに重大なことは、同じ体験がある人との分かち合いだと思っています。経験していない人にはなかなか理解できないのです。  私は1ページの一番下にドイツ語の有名なことわざを引用しました。 「Geteilte Freude ist doppelte Freude, geteiltes Leid ist halbes Leid.」 翻訳してみると、「共に喜ぶのは2倍の喜び、共に悲しむのは半分の悲しみ」 そのとおりですね。誰かがすごくいい体験をして、一緒に喜ぶ人がいればより大きな喜びになります。耳を傾けて共感してくれる人がいれば、半分の苦しみにはならなくても、少し楽になります。  私はいろいろな国際学会で、死別体験の発表を聞きました。 例えば奥さんが亡くなってから、残されたご主人の死亡率が4倍になっている統計もあります。立ち直れない人が多いです。 奥さんはもう少し上手に立ち直ることができます。でも、奥さんも非常に苦しみ、死亡率も上がるという統計もあります。ですから、予防医学として、できれば家族の集いを週1回でもいいからもち、そこで同じ苦しい立場の人たちが、ご主人あるいは奥さん、子供が亡くなる前にお互いに会うことができれば非常に理想的です。まだなかなか病院のなかでそういうことはできませんが、私は「生と死を考える会」のなかで毎月やってます。
「病名告知」はコミュニケーションが土台
まず、医療関係者の発想の転換として、病名告知とインフォームド・コンセ ント、ホスピス的ケアのあり方について話します。
私は以前、厚生省の末期医療検討委員会で、大きなテーマのひとつ「がん告知」について討議しました。私は告知が望ましいと言ったんですが、どうもその時はまだ一般の意識として隠しておいた方がいいんじゃないか、という意見が強くありました。なぜ望ましいか?
50年前だったらおじいさん・おばあさんをだましたり、隠しておくことはできたかもしれません。今は、日本人の教育レベルも高くなり、隠しとおすことはできないと思うんです。がん告知をしなくても、患者さんは本を読んだり、 TV番組を見たりしてわかってしまいます。
ロンドンのいろいろな病院でホスピスを研究していた時、精神科の医者と回ったのですが、ある患者さんの奥さんがこういうふうに言いました。「うちの主人が末期がんであることはよくわかっています。でも、主人は本当に弱い人です。彼には何も言わないで下さい」と。一方、患者さんの最初の言葉はこうでした。「私は自分が末期がんだということをよく知っています。うちの家内はとっても弱いので言わないで下さい」と。
次の日、精神科の医者は、ソファーに座っている奥さんに「旦那さんはよくわかっているので、少し話したらどうですか?」とアドバイスしました。ご主人は奥さんがあとで困らないように、大切な鍵はどこにあるのかとか、保険について、会社について、どの親戚にはちょっと注意した方がいいとか、一生懸命説明しました。
そして、最後の日、何回も「ありがとう、ありがとう、Ilove you!」と言いながら死にました。
私は患者が死ぬとき、いつも2つのことを分析します。一つは人間らしい死に方であったかどうか、二つ目は遺族についてです。
この患者さんは、本当に人間らしい死に方だったと思います。つまり、最後まで思いやりを示しながら生きたんです。奥さんや遺族があとで困らないように。 この場合、この奥さんは一生涯ご主人を思い出すたびに最後の言葉「ありがとう、Ilove you!」を思い出すでしょう。素晴らしいことです。奥さんにとって、一番大きなエネルギーは「主人は私をあれほど愛してくれた」ということ。一番大きな支えになったんじゃないかと思います。
ですから「がん告知」という問題は、ただ病名を告げるということではなく、コミュニケーションという枠のなかで「がん告知」をし、末期患者に最後まで精一杯人間らしく生きるチャンスを与えることじゃないか、といつも考えています。
もう一つの実例は、私は毎年上智大学で「死の哲学」を教え、800人が私のコースをとっていますが、そのなかで、毎年何人かのお父さんが亡くなります。
代表的な実例は、ある学生が「うちの父は、今末期がんですが、田舎ですので医者はがん告知したくない、と言います。私はどうしたらいいですか?」私は、「まず、家族のなかで話し合って下さい。もしコンセンサスが得られれば言ってほしいと、医者に頼んで下さい。『死の哲学』の時間で取り上げたテーマなどを話題にして、それとなく心の準備をしてもらうことができるかもしれませんね」
11月に同じ学生が「先週、授業を欠席しました。お葬式でした。がん告知のあと父と過ごした最後の夏休みは本当に深い体験でした。私は、今まで知らなかった父を知ることができました。私は、大学に入るまで父とのコミュニケーションは、お金が必要なときばかりでしたが、半年間死について考えましたから、父と今までなかった深い話ができました。よく散歩しながら話をし、以前は知らなかった父の素晴らしさを理解しました。最後の夏は、最高のときでした。」
お父さんにとって、本当の自分の価値観・自分の理想・自分の息子に対する希望を伝えることができたということは、クォリティ・オブ・ライフにとって最高のことだったと思います。そして息子さんにとっては、自分は近いうちに父を亡くすということを理解しながら、一生懸命お父さんと話しコミュニケーションをとって、そういう人間的なふれあい・分かち合いができたということは、貴重な体験でした。それは、二度とないんです。
そういう意味で、がん告知はただ病名を告げるだけではないんですね。コミュニケーションが土台だと思うんです。
しかし、悲しい、ネガティブな実例もあります。地方で講演したとき、前に座っていた看護婦さんが突然涙を流しました。私は、彼女を東京で知っていました。お父さんが同じ病院で亡くなったんです。彼女は当然がん告知をした方が望ましいとわかっていましたが、医者は「お父さんは知らない方が幸せだ」と言った。
彼女のお兄さんは国立大学を出た医者でしたが、お兄さんも「知らせない方がいい」と言いました。そして、お父さんは亡くなった。彼女は最期を看取り、お父さんの日記が見つかりました。
[うちの娘は東京の病院に勤めていたのに、死ぬ患者・末期患者には何もしない。孤独]
[今日は国立大学医学部を卒業した息子が来た。末期患者に対して何もしない。孤独]
お父さんは知っていました。知らない方が幸せだ、と言っても、それは勝手に想像するだけのことです。本人は極端な孤独のなかで最後の1カ月を過ごしたんです。そのとき彼女は、ターミナルケアにおいて、看護婦として大切なこと、またお父さんに対する最後の贈り物はがん告知を含むコミュニケーションであった、と思ったんですね。
「する」医療と「いる」看護
肉体的には治らないとわかっていても、まだ心のいやしがあるんです。死に直面すると誰でも孤独です。寂しいです。一番望むのは、自分にとって大切な娘・息子・配偶者あるいは友達と話すことです。相手に耳を傾けてほしい。その悩み・苦しみについて聞いてほしい、共感してほしいんです。それができないと心のいやしはないんですね。
  私は「する」医療と「いる」看護とを区別しました。ドイツ語の専門用語でとても感激する言葉「Sterbebegleitung」末期患者と共に歩む、があります。Begleitung は共に歩む・そばにいる、という意味です。ですから文字どおり、医療従事者として、家族としてそばにいるということがとても重大だと思います。
キルケゴールという哲学者が、美しい言葉をいってます。「Der Helfer ist die Hilfe」=「救け人自身が救けである」 まだ治る可能性があれば手術・薬などの「する」医療ですね。けれど最後の段階で(疼痛緩和は最後までしますが)、そばに「いる」ということが医療従事者として、家族として大切なんですね。 昨日「東京 生と死を考える会」で死別体験者のひとりの男性に「奥さんが死ぬとき、一番辛かったのは何でしょうか?」と聞くと「妻が死に近づくと、医者はだんだん病室に来なくなり、いる時間も短くなる。看護婦は避けるようになる。それが一番辛かった」と話してくれました。
そばに行って、耳を傾けることは辛いです。医者にとっても、もう治すことができない、という辛さはあるでしょう。しかし、最後の段階でそばにいる、ということはとても大切です。ただそばにいるという自分の存在が救けである、という意識がターミナルケアでとても大切なことだ思います。
「思いわずらい」からの解放
家族も患者も一つの大きな問題は思いわずらうことです。いろんな心配はありますが、大部分の人は自分がコントロールできないことについて思いわずらう。そのくせ、本当にコントロールできることは、できてもやらないんです。 美しい祈りの言葉があります。「神よ、私に変えられないことはそのまま受け入れる平静さと、変えられることはすぐにそれを行う勇気と、そして、それらを見分けるための知恵を、どうぞ、お与えください。」 「明日のことを思いわずらうな」という例えになりますが、私は、「第3の人生」という本を書く前、アメリカの老人ホームで生活して、お年寄りを朝から晩まで見ていました。だいたいの人は楽しくしていたんですが、ある人は朝から晩まで思いわずらっていました。 思いわずらいがまるで道楽のように。明日は雨が降るか降らないか、思いわずらう。明日雨が降れば降る。降らなければ降らない。何でいちいち心配しなければならないのか? 私は、天気でスローガンを作りました。「天気でもアーメン・雨でもハレルヤ!」(笑) コントロールできないことを思いわずらうのではなく、雨が降ったとしても何ができるか、と発想を転換する必要があります。
「生きがい」も心のいやし
 心のいやしの大切なポイントの一つは、「生きがい」です。スピリチュアリティという言葉がよく使われますが、スピリチュアリティのひとつの大きなテーマは、生きがいの探求だと思います。  私が生きがいについてとても感激する言葉にドイツの哲学者アルフレッド・デルプの言葉があります。彼は、37歳の若さで死刑にされました。反ナチ軍の人でした。 彼は、ベルリンの刑務所のなかで、死刑の直前にこの文章を残しました。それは、彼の哲学のメインポイントだと思います。「人間は、どれ程長く生きたかだけではなく、どれ程一生懸命生きたか」「もし一人の人間によって、少しでも多くの愛と平和、光と真実が世にもたらされたなら、その一生には意味があったのである」  これは深いですね。私も毎晩寝る前に、今日は意義のある一日を過ごせたかどうか? 自分の努力によって少しでも多くの愛と平和、光と真実をもたらされたのであれば、意義のある一日を過ごせたといえるんですが、もし、愛の代わりに夫婦喧嘩をし、平和の代わりに隣の奥さんと争いごとを起こし、光の代わりに悲嘆を広め、真実の代わりに隣の奥さんの悪口を言ったとすると、意義のある一日ではなかったと反省しなければなりません。  心のいやしは、一時的に自分の生きがいを失ったとしても、また新しい生きがいを探求することで得られると思います。年をとってからの生きがいの探求は、ボランティアの活動だと思います。 昨日ドイツの新聞の統計を見ましたら、ドイツは国民の35%がボランティアの仕事をしています。フランスはだいたい19%。日本は11%。まだゆとりがあるんですね。(笑)  私は上智大学で、毎年「ホスピス・ボランテイア講座」をやってます。去年は250名。そのなかで一番多いのは20代の女性。これは大きな日本の希望ですね。アメリカの大きな調査で1700人の年寄りの男性を10年間調査しました。ボランティアをやっていない人は、やっていた人の2.5倍の死亡率になっているんですね。研究発表のタイトルは「ボランティアでもっと長く生きる」。
生きがいを持っている人は長生きするということです。
終末期における6つの課題
「第3の人生」への6つの課題、ということは、末期患者が緩和ケア病棟に入ってからの6つの課題と解釈してもいいです。
  1. 手放すこころ〜執着を断つ
  2. 若いときはどうしてもいろんな「もの」への執着がありますが、最後の段階・第3の人生に入ったら、少しずつ自分の仕事への執着、社会的地位への執着、お金への執着を手放す態度を身につけなければなりません。 私は何百人もの患者の死を見てきましたが、一番悲しかったのはニューヨークの病院でのことです。医者の判断ではその患者の命はあと1時間しかない。その段階でその患者は「先生、ちょっと調べて下さい。銀行にドルはどの位入っているか」 私は哀しかった。そして、言いたかったけど言わなかった。「天国ではドルは使えない」そして「ユーロになった」って。執着によって、他の5つの課題があるのにできない。
  3. ゆるしと和解〜こころのケアの大切さ
  4.  日本の文化は和の文化。調和を大切にする。最後の段階で、人間関係が不調和のままで死を迎えてはいけないんです。ゆるしを得て、ゆるしを与えて和解することは、最後の段階で大切な課題ですね。  人を許せるのは、自分が弱いからではなく、真の強さの証だと思います。他者を許せない人は、終わりのない憎しみとうらみの悪循環に支配されています。許す、ということで過去のできごとを変えることはできませんが、自分自身をより豊かに、より寛大なものに変えることができます。  私たちは医者であれ、看護婦であれ、家族であれ、最後の段階で、もしまだ心の不調和があるならば、死ぬ前に和解することは、患者にとってとても大切な心のいやしになります。心のいやしなしで、素直に死を迎えることはできません。ですから、患者の最後の一番大きなニーズは、心のいやしとして許される、ということです。
  5. 感謝の表明
  6.  私は、たくさんの未亡人に会いました。彼女たちにとって一番嬉しかったのは、ご主人が死ぬ前に「ありがとう」と言ってくれたことです。また、その逆もあります。10年間寝たきり状態のお姑さんの介護をしたのに、一度も「ありがとう」と言わなかったという話もあります。 「ありがとう」と感謝することは大切ですね。
  7. さよならを告げる
  8. 遺言状の作成
  9.  ご主人の奥さんに対する最後の愛の表現になります。家族同士・親戚同士で裁判、争いにならないように。
  10. 自分なりの葬儀方法を考え、それを周囲に伝えておく
人生の最後の大きな儀式は、お葬式ですね。ただ形式的なことだけじゃなく、具体的に準備した方がいいと思います。 ドイツでしたらお香典という習慣はないんですが、お花代という習慣はあります。最近は新聞に「誰のお葬式はいつ・どこで行う」と書いてあり、「お花の代わりにお金をこの銀行に送って下さい」。(笑) 自分なりのまた、遺族のためにふさわしいお葬式を考えることを、第6の課題として提案したい。6つの課題を解決することが、最後の段階の心のいやしになるんです。 自分なりの最後の日々を過ごすことは、素晴らしいことですね。
愛と思いやりに満ちたユーモア
    ユーモアの概念
  1. ユーモアという概念はもともとはラテン語で液体を表す「フモール」からきています。
  2. 人体のなかの液体、つまり体液を「フモーレス(フモールの複数形)」と呼び、中世期のヨーロッパの医者たちは、このフモーレスこそ生命の本質であり、その流れが人体に活力を与え、創造力を補っているのだと考えたのです。 文明の進歩につれて、ユーモアから本来の意味が薄れ、あってもなくてもいい存在に変わってしまいました。
  3. ユーモアと健康
  4.  誰かが病気になって入院するとき、(特に末期患者の)家族の健康管理、医者・看護婦の健康管理のためにユーモアはストレスを緩和できる道として重要です。
  5. ユーモアは愛と思いやりの表れ
  6.  ジョークとユーモアを同じ意味で使う人がいますが、私は区別します。 ジョークは言葉の上手な使い方とかタイミングなどの頭の上の技術です。きついジョークは相手を傷つけることもあります。 ユーモアは心と心のふれあい・相手に対する思いやりを原点としています。  例えば、患者さんに対する思いやりとして、医療従事者(医者・看護婦)の微笑みや笑顔を患者さんはとても喜ぶと思います。家族同士も、一番望んでいるのは、相手の明るさや笑顔による思いやりだと思います。
  7. ユーモアと笑いによるコミュニケーション
  8. 最近の専門家は、私たちの日常生活の80%は無言のコミュニケーション・ボディランゲージ(body language)という顔・手など身体の表現によってのコミュニケーションだといっています。20%だけが言葉によるコミュニケーションです。 一人の患者さんと話をしていても、同じ部屋の他の5人の患者さんも看護婦の顔を見ています。きつい顔だったら無視するでしょう。顔の表現だけでも、患者さんの存在を認めて挨拶できるんですね。 皆さん、自分の顔を鏡で見て下さい。ビューテイフル・ヒューマン・ライフのためではなく、コミュニケーションの顔であるかどうかを見てください。


最後になります。今日のテーマは「心のいやしとユーモア」についてです。
ドイツの有名な定義に、[ユーモアとは『にもかかわらず』笑う]があります。 苦しんでいるにもかかわらず、相手に対する思いやりとして、笑顔を示す。これは心のいやし、夫婦関係・親子関係・患者さんおよびとても大切な人との関係のいやしとなるのです。ですから、ユーモアは心のいやしに特に重要だと思います。
「にもかかわらず笑う」。 苦しんでいるのにもかかわらず、相手に対する思いやりとして笑うとか、思いを示すという重大さを発見したのは、私の人生において辛い時でした。
フランスから日本に来て横浜に着いたとき、私は日本語は2つの単語しかわかりませんでした。「さようなら」と「ふじやま」。「ふじやま」が間違いだとわかった時、ガッカリしました。私の日本語の50%が誤りだったんですから。(笑) それから、日本語を一生懸命勉強しました。ある時、親切な日本人の家に招待されましたが、英語もドイツ語もわからないと聞き、どうしたらいいか、アメリカ人の友だちに相談しました。彼は「あまり心配しなくていい。3つのルールを覚えておけばいい。 1つは、ニコニコしていること。第2はよくうなずく。第3はたまに『そうですね』と言うこと」と教えてくれました。(笑)
招待された家に行き、おいしいご馳走を食べながら、笑顔でよくうなずき、5分ごとに「そうですね」と言いました。私も奥さんの顔を見て、笑っていたのでよかった、と思っていたんですね。 それがご馳走が終わるころ、大きな危機がきました。奥さんは「お粗末さま」と言い、私は「そうですね」と言ってしまいました。(笑)
その時、奥さんの顔がちょっと何かおかしいと思ったんですが、うちに帰ってアメリカ人の友だちに「『お粗末さま』ってどういう意味?」と尋ねたら「えっ? 君はその時、そうですね、って言わなかっただろうね」「いや、言ってしまった」。 その時私は、ドイツ語の定義を思い出しました。「……にもかかわらず笑う」。
皆さんにも最後に勧めたい。 人生において、苦しい体験があります。いくら努力しても、この世のなかに完璧な人は一人もいない。自分のお父さん・お母さん・ご主人・奥さん・先生・子供、いろんな問題があるでしょう。 相手の欠点について怒ったり、自分の失敗について反省したり。でも、たまに一緒に笑うことができれば、病院のなかでさえも温かい雰囲気ができる。 家族のなかでも、学校のなかでも、ユーモアによって、相手にとっても心のいやしになるし、自分自身にとってもいやしになると思います。

≪ アルフォンス・デーケン ≫